2010.06.18
すぐに答えの出ない問い
その日、私は高校生の数学を教えているY先生と今年第一志望の大学受験に失敗したTのことについて話をしていました。もともと国公立大学の法学部を目指していたTは、文系科目を得意としていましたが、数学が苦手でした。しかしTは大変よく学習をする生徒で、Y先生の出した課題も家ですべてこなしていたにもかかわらず、今回の入試については、数学で思うように点数が取れなかったのです。大学を首席入学したY先生は、受験数学についても大変高い能力をもっており、また生徒への強い熱意があるにも関わらず、Tの数学を十分に伸ばしきれなかった。それが、いったいなぜなのか、私はY先生と一緒に考えてみたかったのです。
「Tのことなんだけど、Y君が指導していて彼女は〈伸びた〉って感じを持った?」
「…、Tは本当によくやってくれたんですが、正直、あんまり伸びてないように思います」
「なぜ伸びなかったんだろう。僕から見てもY君は数学について高い能力を持っているし、Tの学習へのモーティベーションも高かった、にもかかわらず〈伸びなかった〉のはどうしてなんだろう?」
「実は、僕もそのことを今までもずっと考えながら指導してきたんです。いろんな教材を調べたり、有名な予備校講師のシラバスを確認したりしたんですけど、特に僕の指導の流れに問題は見つからなかったんです。生徒との関係も良好だったし、特にTなんか、よく慕ってくれてたんです。でも、伸びなかった。僕にもわからないんです」
Y先生は、中学の時に数学がまったくと言っていいほどできない子どもでした。それが高校に入学してから一変します。少し家庭内で複雑な事情を抱えていたこともあり、きちんと勉強して難関大学に入学することを目標にかかげ、自学自習で数学の力を磨いてきたという経験を持っています。私は、彼を講師に採用する時、彼のそんな経験に魅力を感じていたのです。だからY先生は、数学ができない生徒の状況はよく理解できるのです。
「Tは、主体的に数学の考えを組み立てていたんだろうか?あるいは、Y君から指示されたことをただ処理していただけなのではないだろうか?僕が思うのには、数学ができるようになるためには、自分で数式の処理をしながらも、その処理が全体の中でどんな位置にあり、何を意味するのかを常にモニタリングしなければいけないと思う。つまり、目の前のことを処理をする思考と、その処理をモニタリングする思考の両方が同時に必要になってくる。だから、ひょっとするとTは、そのモニタリングの思考、メタレベルの思考が育ってなかったのかもしれない。どうだろうか?」
「確かに、そうかもしれません。Tは僕の出す課題を、ただ処理していただけかも知れません。今まで何度か僕は塾長の数学の質問に答えてきたことがあるじゃないですか、塾長は高校数学の公式をほとんど知らないのに、どんどん問題を解いていかれる。図を使ったり、グラフを描いたり、見当をたてて数字を当てはめてみて、そこから仮説を立て、次の数字をいれて検証する、だいたいそんな方法で問題を解かれてきたと思うんです。そんなやり方をする生徒なんて誰もいないんです。あらゆる情報から可能性を見つけ、それを組み合わせて仮説を立て、同時に検証する。そしてその仮説が行き詰まると、その行き詰まり方からも情報を吸い上げて、さらなる仮説を組み立てていく。塾長は、そんな感じの思考が恐ろしく強いんだと思うんです。まさにTには、その力が育っていなかったんだと思います」
「じゃ、どうすれば育つんだろう?」
「うーん…、僕は今まで問題を多くこなしていくことで、そういう能力が身に着くと思ってたんですが…、でもTは身に付かなかった…」
「たとえば、ある対象物に何かをどんどん与え続けると、その量に応じて定量的な変化がみられる。でもこの実験をし続けていくと、ある段階で急速に変化が大きくなるポイントがあるように思うんや。少し比喩的な表現だけれど、その変化が大きくなるポイントでは、対象物の内部の構造がある段階を境に変わったり、別のファクターが働き、変化そのもののあり方が変わっていく。こんなことが数学の学習においても起こるんじゃないかな。つまり、数学の力を伸ばすには、問題を与え続けるだけでは不十分であるということ、何か別のファクターがいる。それが何かだよなあ…」
「なるほど…、そうかもしれません。でも、それって何なのでしょう?どうすればそれが育っていくんでしょう?」
すぐに答えの出ない問いがはじまりました。アウラではよく生じるやりとりです。決して私が答えを持っているのではありません。私も一緒に考えていくのです。
「塾長は、どうしてそんな多面的な思考ができるようになったんですか?それって、昔からそうだったんですか?」
Y先生の質問に私は考え込んでしまいました。そういわれれば、子どもの頃からそうだったのかもしれない。とにかく小さいころから、仮説を立てて考えることは好きだったように思います。特に答えが出ないことが好きでした。それと誰かとその問題を共有して考えることが好きでした。それは、誰かと問題を共有することで、自分とは違った考え方を手に入れることができるから、そのことによって新たな仮説を作り出せるからだったように思います。高校生の時、ある数学の教師にこう言われたことがあります。
「おまえは、いつも考えすぎるから数学ができないんや。公式を覚えてそれに当てはめる。考える暇があるんなら、問題のパターンを覚えろ」と…。
「確かに僕は、子どもの頃から〈考える〉ということそのものが好きだった。考えるということは、主体的でなければ成り立たない。試行錯誤しながら、いや、言い方を変えれば〈考える〉ということは、〈仮説を立ててそれを検証する〉という連続的な作業じゃないかなあ。仮説は、自分の持っている既有知識と問題から提供される未知の情報との関係性を見つけ出すことで構成されるから、それは教師によって与えられるものじゃない、自分でその関係性を作り出さないといけないんだ。難解な数学の問題を解くには、そんな思考が必要じゃないだろうか?処理能力だけでは、決して歯が立たないように思うんだ」
「なるほど、そう思います。でも、どうすればそれが生徒にできるようになるんでしょう?」
「Y君自身は、どうしてできるようになったんだと思う?僕の話を理解できるんだから、Y君の中にも同質の経験があると思うんだ。どうだろう?」
「うーん…、僕はやはりたくさんの問題をやったからかなあ。でも僕の場合、教えてくれる先生がいなかった。だから自分でその勉強をやったんです。だから当然、そこには思考錯誤の過程があり、自分で検証しながらやってきたんだと思うんです」
「そう、その主体的な経験を生徒にもしてもらわないといけない。自分で仮説を立て同時にそれを検証する。知識を入れるだけ、あるいは処理の量だけでは不十分なんだ。自分で考えを組み立てられないと…」
「少し考えてみます」
「僕も、考えてみる。どうすれば、彼らが自分で仮説を立てながら自分の思考を作り出すことができるかを」
こうして、私とY先生との話は終わりました。数学という教科は、自分であることに取り組みながら、一方でその取り組みそのものを振り返るといったような、再帰的な思考のトレーニングとしては、最適な教科だと思います。日本の難関国公立大学が、文系であっても2次試験で数学を要求してくるのは、きっとそのことが関係しているのだと思います。より、多面的で立体的な思考のできる学習者を、アウラの教育が育てられるかどうか。私たちの挑戦は、まだまだ続いていくのです。
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