2012.02.21

社会病理としての不登校

アウラで私は、今まで30人ほどの不登校の子どもたちの巣立ちに立ちあってきました。その大まかな過程として、学びを通した自信の獲得、生活リズムの立て直し、仲間との関係構築→自己変容→家族変容→巣立ちといった道筋が考えられるように思います。つまりそこには、「不登校」という一つの経験に直面し、それを子どもが自分自身の変容の糧とし、今度は家族がその子どもの変容を家族そのものの変容の糧にしていくような二重構造見られたように思います。そういった意味では、私たちの仕事は、まさに「不登校」という経験を、人生の汚点のようなネガティブな位置づけから、変容の糧となりうるような学びの対象としての位置づけへと変換していくことではないかと思っています。

私自身の中では、「不登校」という現象を「発達障がい」や「人格障がい」などの個人病理に還元するのではなく、むしろ社会病理の一つの現れとして認識しています。大きなフレームとしては、私たちの生活世界が持つ多様性やそれに伴う不透明感不確実さ(ポストモダンな社会特性)と、画一的な答えを求めようとする近代的な社会システムとの構造的な葛藤がそこにあると考えています。

そういった意味では、「不登校」という現象は、とても分かりやすいものだと思います。
このような個人と社会との関係の葛藤状況が不登校という現象に表現されているのなら、これは個人が問われると同時に社会そのものも問われなければならないはずなのですが、どうしてもそれを個人の病理として処理しようという流れがあることに、私はやり切れなさを感じます。でもその一方で、社会システムを変えるのはそう簡単ではありません。だから結果的に個人の変容が求められるのだと思うのです。

大事なことは、その変容の質なのではないでしょうか。そこに個人の病理を持ってくると、どうしても個人が社会あわせるというカタチになってしまいます。M.フーコーじゃないけれど、個人の病理は今の社会が作り出したという側面があるからです。だから、子どもたちには病理というフレームではなく、よりメタな認識を持ってもらいたいと考えています。つまり、自分が問題なのではなく自分と社会との関係に問題があって、それをただ単に社会のせいにするのではなく、自分自身がまず変わることでその問題を積極的に解決するんだという問題解決を模索する思考を持ってもらいたいと思っているのです。

そして、私たちは現場で勝負しますから、それを理屈として彼らに説明するのではなく、私たち(アウラという共同体)と子どもたちとの関係性にそれを表現していきます。つまり、理論を目の前の場に表現してしまう。これは、G.ベイトソンのメタローグという手法です。私たちは、場があるので、立体的な時間軸の中で子どもたちにかかわることが可能です。ある一定の共有化された時空間がある上に、今の彼らの状況を伝えることは、その変容に大きく貢献していくことができるのだと思っています。

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