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      <title>知誠館 : スタッフブログ</title>
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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         <title>水槽の中の熱帯魚</title>
         <description>
「学校に行かなくなって初めて見える世界がある」
私は、彼の学習している席の横に座りながら話を切り出しました。
「学校にいる時は、学校が世界になる。テストの点数や、学年の順位、クラブの人間関係、クラスの友達、先生との関係…、それが世界のすべてになる。だから嫌なことがあったら、それはまるで地獄のように思えてしまう。でもよく考えたら、学校なんて限られた世界だってことがわかってくる」
「そうなんですか？」
「私は、そう思う。小学校から中学、高校までは、一つの流れがある。そこでの勉強は、一つの答えに向かう勉強なんや。正しい答えが最初に用意されている。その答えに誰が早く正確にたどり着けるかで、評価が下される。無駄なことを考えれば、その分評価も下がっていく。だから効率よく学ぶことがいいということになって、みんなだんだん意味なんて考えなくなって、丸覚えをするようになってしまう…。その出発点はどこやったか、それは答えが一つであるということ。これが、高校までの学習の特徴なんや。でも、学校を卒業して社会に出ると、答えが一つに決まらないなんてことはよくある。例えば、君にとって幸せな人生って何？、生きがいを感じる仕事って？、どんな商品がこれからヒットする？…、みんなすぐに答えなんか出てこない。少なくても覚えたら何とかなるようなものじゃない。これは、大学での学びも同じこと。答えを自分で作り出すことが研究なんや。つまり、君たちが高校を卒業した途端、社会には答えが一つじゃないことの方が多いってことがわかるんや」
「なるほど…」
「でも、学校にいる時は答えが一つであるということが、実は例外的であることに気づかない。学校という世界に生きていれば、学校が世界のすべてになってしまう」
「あっそうか」
「そうなんや。ちょうどここに、熱帯魚がいるでしょ。熱帯魚にとっては、この水槽が世界なんや。すべてなんや。魚たちはこの世界の中でしか生きれない。でも、それを眺めている私たちが、実際にはいる。その世界を管理している存在がいるというわけなんや。でも魚たちは、水槽の中で生活している限りはそのことに気づかない。そこから出て初めて、自分たちが水槽という限定的な世界の中でいきていたことを知るわけなんや。学校も一緒、そこから出て初めてそれが限定された世界であることがわかってくる」
「はい」
「学校に行けなくなったこと、それをキミはダメなことだと思ってたかもしれない。そしてダメなことだと思えば思うほど、ますます苦しくなり、キミは家から外へ出ることもできなくなってきたのかもしれない。でもよく考えれば、これはキミが今までいた世界を外から眺めることのできるチャンスなんだ。一旦、外の世界から眺めてみた時に、何かに気づかもしれない」

　こうしてＨ君もまた、アウラに学ぶ学習者の一人になっていきました。大変知的な彼が、ここで何を学び、そしてどう変わっていくのか、私は楽しみです。後日、彼は私にこんなことを言ってきました。

「塾長がこの間、言ってくれた“熱帯魚の話”、あれって、星新一の小説の世界みたいでした」

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         <pubDate>Fri, 23 Jul 2010 12:13:50 +0900</pubDate>
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         <title>埋め込まれていく学び</title>
         <description>モノが片づけられないといっていた小6のＫ君が、アウラで学習を初めて3ヶ月。今日は、初めてのお母さんとの面談でした。家では、どんな変化が見られているのでしょうか。私は、それを楽しみにしていました。

「彼は、アウラで学ぶことを家でどんな風に言ってますか？ 結構楽しんで来てるでしょ？」
「楽しんでます」
「そうでしょ、楽しんできてますよね。そう思います。毎回、楽しそうにやってるしね」
「あの最初の時にお話した中で“モノが全く片づけられない」ということでしたよね。そしてそのことがあって…、ここではいろんなことを大変キチンとやってますよ」
「確かに、ここにお世話になってから、変わってきたなというのは見えてきてるんですよ」
「どういう風に？」
「むちゃくちゃきれいにするというんではないんですけど、学校のものと要らないものと今使うものに分けられるようになった」
「前はできてなかった？」
「もう、それはぐちゃぐちゃで…」
「ほー、あっそう。なるほどね。不思議ですね、国語だけを週に1回学習してるだけなんですけどね」
「もうほんまに、何でって思うんです…」
「Ｋ先生、お母さんの話では、ほんまにひどかったんですって、家の中もぐちゃぐちゃで、何から手をつけていいかわからん状態やったようです。私も最初聞いてびっくりするくらい…。そして本人は、“すぐに頭の中がごちゃごちゃになる”って表現していた…」
「言ってました」
「だから、本人も訳がわからんようになっていたんだと思うんです。そして、国語を履修することを通して彼のその部分がどんな風に変化していくのか、それを見たかった。だから私の焦点はそこにあったわけです。“ごちゃごちゃになってしまう”という状態がどう変わっていくかを、国語を通してやろうという指導目標を立てたわけです。でも、国語のプリントとかとても彼はきちんとするんですね。私は驚いたんです。一度、見てやってください。それは、本当に感心するくらい間違い直しもきちんとしてるしね」
「そうですか…」
「まあ、見てください。彼のやったプリントを、“見せて”って言って…」
「見ました」
「きれいでしょ？丁寧に直せてるし…。読書の発表も起承転結をちゃんといれて、丁寧に発表するんですよ。彼は、日本の歴史にこだわりがあるようで、そればっかり読んでますけど…」
「そう、歴史がおもしろいみたいです」
「それを、“こうなって、こうなって”って、実に丁寧に話してくれるんですよ。だからここでの彼の様子を誰に見せても、“きちんとした子だね”って思われるだろうし、まさか今までモノを全く片づけられなかった子どもだったとは想像もつかないと思いますよ。まあある意味、多動的な行動があるとか、誰にも見えないだろうなって思うんです。だから、あの…、不思議やなって思うんですよ。でも少なくても、週に1回は、そんな様子で学習に取り組むでしょ、それが彼の日常のごく一部ですけど、彼自身の中に埋め込まれていくんでしょうね。だから当然日常の生活の中にも変化が現れる…」
「あんまり言い過ぎた部分もあるのかなって、私が…。“片付けなさいって”とか“早くしなさい”とか、この人少し参ってたこともあったから…」
「それもあるやろね…」
「だから、言わないようにはしてますけど…」
「褒めてあげることが大事かもしれませんね。まああんまり何も言わなくて、逆にうまくやれている部分を褒めてあげるという…。やっぱりそれがすごくいいと思います。私は彼に対しては、よく褒めているわけですよ。“すごくきちんとやれてる”とか、“ていねいにやれてる”とかね、まあだから、あえてそういうポイントで褒めている。何点やったとか、そんなことあんまり関心を示さないんですよね。そんなことより、きちんと仕上げられることの方が大事、そこに私の意図があるんですよね。そこにね…。それは、先も言ったように、彼への指導目標をそこにおいてるのでね、ぶれないんですよ。教育って奥深いんですよ。それで、大変知的な作業なんですよ。これってね…、見えないところでいっぱい絵を描くんですよ。そしてそれを彼とのやり取りの中で表現するだけの話なんですよ。まあ、でも今のお母さんの話を聞いて、私はうれしいですよ。それだけ彼はどうしようもなかったわけでしょ？何をやってもなかなか改善されなかったわけでしょ？」
「何回も学校へ行って相談したんです」
「ねえ、もっと早くアウラに来られたらよかったのにね。手品のように動くわけですよね。教育のすごさですね。ということは、お母さんにとっては結構満足ですね」
「それはもう、大満足です」
「それはよかった」
「少しずつ変わってきたのが、目に見えるようになってきましたから…」
「まあ、それじゃそういうところを褒めてあげてくださいね」
「はい、あっそれから、あの子がこの前、担任のＴ先生に塾長の話をしたら、“よく知ってるで”って言われたって、嬉しそうに言っていました」
「Ｔ先生、よく知ってます。だから、今度学校の面談があった時には、この彼の話をＴ先生にも話してあげてください。指導の参考にあると思うので…。北村がそう言っていったとお伝えください」
「わかりました」


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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 16 Jul 2010 12:12:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>今この瞬間に研究の片鱗を見る</title>
         <description>　2週間に1度、私は私の大学の師である中村先生と対話の時間を持っています。この二人の対話は去年の10月からスタートし、終わることなく続いています。知の世界がそこで生産され互いを刺激し合う場、今回はそんな雰囲気をみなさんにお届けします。

私の中には、ある確信があります。それは「その人の仕事が本物（authentic）であればあるほど、その仕事そのものが、その人の一挙一動の中に表現される」ということです。

「ここらへんは、何か北村さんは一生懸命、私のことを聞いてくれてるよね。久しぶりだね、初めてだよね、こんな風に取り上げてくれるの？」
「あ、これ？」
「まあ、そもそも、私が何やってるかさえ知らなかった時から見るとね。たくさん私の書いた本をあげて、とにかく“指導教員が何やってるか知らない”というところからの始まったことを思うと、だんだん関心を持ってくれてるじゃない？」
「そうですね」
「これいったい何なの？どういう事態なの？」
「いや、あのねえ…」
「何でそんなことができるかということが、私は不思議なんですけどね」
「えっ？」
「そのー、指導教員が何やってきたかも知らずに、この環境を作るっていうのはどういうことなのかということに強い関心があるんだけど…。普通の学生の入り方じゃないもんだから、ね、ちょっと聞いといた方がいいかなあと、とにかく不思議なアプローチなものだから…」
「それは、前も言ったように、やっぱりベイトソンの本をいきなりだしてきたからですよ」
「“ベイトソンを読め”って？」
「そう、そう言うから、“この人、半端な人じゃない”って思ったんですよ」
「そんな風に直観的に思うって、どういうこと？何か判断軸があるんでしょ？」
「私は、それまでベイトソンを知らなかったしね。だから、言われたその時は、そんなに思わなかったのかもしれない。でも、読み始めて“こういう本を出してくるか…”って、半端じゃないねと思ったんですよ。あのね私ね、結構、人をある程度自分で評価してるかもしれない」
「そうでしょうね」
「この人は、どのレベルなんやろうとか、ここまで来るかなあとか…、これおもしろいんですよ」
「なるほど」
「だから中村先生については、どんな研究をしてようが、そんなことあんまり…」
「表面的なことであると…」
「そうですね。だからベイトソンの話があって、こんな風にエピソードを色分けするサジェッションがあって…、そうそう、この色分けのサジェッションも私にとっては、インパクトありましたね。そういうところのすごさというのか、でも、こういう風な中村先生のものの見方というのは、どういう風に先生自身がこれまで、あるいは今この瞬間も社会病理を見ているかというまなざしを反映していますよね。だから、先生のサジェッションの中に、その研究の姿を読み取っていたんだと思うんです。だからだんだん先生の研究にも興味を持ってくるわけですよ」
「それはだから、何か行間が埋まっていくわけ？」
「そんな感じかもわからないね…」
「ふーん」
「あのー、だからさっきのＨさんの話じゃないですが、文脈がどんどん見えてくるわけですよ」
「なるほど、そういうつきあいなんだな、それは大人だわ、大人…」
「大人かどうかは…、でも、先生は極めて一生懸命な人だから…、私は一生懸命な人間が好きなんです」
「だからそれは、多動なんだって…」
「一生懸命ですって…」
「多動…」
「だから、それと…」
「直観的ですよね、自分の感性を信じてるでしょ？」
「そうかもしれませんね」

「まあ、でもこうしてあらためて見てみると、北村さんが私のある側面を引っ張り出しながらも、共通にどういう点に関心があって何を聞いてるのかというのがあるじゃない、それはそれで焦点定まっているから、まとめてみるとおもしろいですよ。私はこんな私なのかというのが、よくわかるんですよ。それは北村さんは、他者だから私のすべてを映し出しているわけじゃないんですが、自分の関心で見てるわけですから、でも文脈を見るという点では何かコンテクストを読み取ってるんでしょうね…」
「でも、やはり重なっている部分を見てるんでしょうね」
「最近読んだ本で『ミラーニューロン』というのがあって…」
「それ、私も読みましたよ」
「脳科学ですよね。共感したりだとか、悲しんだりとか、怒ったりとか、感情を読み取るマインドリーディングみたいなことを、なぜ人間はできるのかと、そんなことは神経学的基礎があって、鏡のように何かを模写したりする中で、同じ気持ちを感じられる。そして感じられないのが、自閉症だということ言うことになるんだけど、そういう側面ではミラーなんですよ。何かを映し出してるわけですよ。映し出し合ってるんですよ、きっと…。まあこれ知的な側面が強いですからね」
「まあでも、社会病理学という点では、今、佐々木先生の授業を受けて、あれも面白いわけですよ。というのは、その授業を受けなかったら、私は中村先生を通してしか知らなかった社会病理学でしかなかったけど、もう一つそこに違ったチャネルができることになるので、そうすると今度は社会病理学というものが、私のテリトリーの中に入ってくるんですよ。それは、社会病理学が一つの人格となってやってくるので、それは面白いなって思えるんですよ。しかも、たまたま授業でハワード・ベッカーを読んだので、どういうパースペクティブで現実を切り取っていくのかという手法、これもメタレベルの話、いやパースペクティブ自体がメタレベルなロジックなので、だから現実をどう切り取っていくとどんな風に見えるとか、そんなところがこの色分けの話であって、これもまた一つの切り取り方に過ぎないって言うところが面白いんですよ」
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 10 Jul 2010 19:15:10 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>ケーキ教室</title>
         <description><![CDATA[はじめまして。
五月から週に一度アウラでお手伝いをさせて頂いています。
立命館大学三回生の古川です。

まだアウラに通い始めて間もないですが、
毎回生徒達と関わることでたくさんのことを学んでいます。
先生という教える立場でありながら、生徒達の感性からは気付かされることが多く、
私のほうが勉強させてもらっている気がします。
私も彼らに何か大事なことを伝えられるようにがんばります！


先週、私達は課外授業としてケーキ教室に行ってきました。
その様子を少しお見せしたいと思います。


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みんな真剣です！
こーんなにおいしそうに焼きあがりました！

みんなとっても楽しそうでした。
いつもの教室とはまた違ったみんなの笑顔が見れました♪
たまにはこんな体験もいいですね！]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">古川晴奈先生</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 06 Jul 2010 14:51:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>テスト結果が返る時</title>
         <description>「先生、聞いて、聞いて。すごいで…」
学校のテスト結果が返ってくる頃、アウラの中ではその結果をそれぞれの生徒が先生に報告する場面が見られます。中３のＴ子は、そんな彼らの中でも特に変化の大きかった生徒の一人かもしれません。

「ほら、数学86点、英語83点」
「へーＴ子、すごいな」
「だって、私、2年生の時、数学も英語も20点台やったもん」
「すると、4倍？」
「そう、4倍くらいの点数がとれるようになった」
「家の人もびっくりしたはる？」
「お母さん思わず、おばあちゃんに電話したはったもん」
「あっそう。よかったね。でも、Ｔ子は本当に変わったね。まあ、点数のこともあるけど、何ていうのかな、今までは“もうどうせやっても無理”って勉強を諦めていたと思うんや、でも今は自信が感じられる。“私もやったら何とかできる”っていう自信。これが大事なんやと思う。アウラに来てＴ子が手に入れた最大のものは、その感覚なんやと思う」
「はい」

子どもたちが本当に変わる時は、何かこうグーッと変わっていくんですね。それが私たち大人とは大きく違う点かもしれません。Ｔ子の場合、その変化はまず数学で起こりました。何か一つでもいいんです。その教科を媒介にして、その子の中にある自信が芽生えてくれればいいんです。彼女は、学習に関して強い劣等感を持っていたので、それが薄まっていくだけで、自信が生まれるのです。あとはその自信を裏付けるようなテスト結果のような具体的なものがあればいい。

Ｔ子は、今学期に長かった髪の毛を思い切って切りました。ショートヘアになった彼女は、その外見の雰囲気さえもどこか知的なものに感じられるようになっていったように思うのは、私だけではなさそうです。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 02 Jul 2010 13:01:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>彼女が語りだす時</title>
         <description>アウラに研修にきている大学生のＦさんは、週１回不登校の子どもたちのいる時間帯にやってきます。そして、子どもたちに関わり、教科の学習のお手伝いをし、授業終了後、私とその日あったことについて振り返りをおこない、自宅に帰ってからそれをもう一度文章化して私宛にメールで送ってくれます。以下は、その文章の一部です。

「…知誠館に行くのは今日で六回目。たったの六回だが、私の中でいろんなものが変化している。一つの事象に対して、以前より視点を多く見出せるようになった。そして、すべてのことは繋がっているのかもしれないと思うようになった。何かひとつでも一生懸命取り組めば、それによって得た力が他のことにも応用できる。そして何より、一生懸命やったという経験が自信となり、自分を支えてくれる。反対に、何事に対してもいいかげんにやっていると、それに対する後ろめたさが自信を失う原因となり、物事を楽しむことができなくなってしまう。そして同じことを繰り返す。まるで負のループだ…」

Ｆさんの中で起こっている変化、それを彼女は次のような抽象的なコトバを使って表現しようとしています。
〈視点を多く見出せるようになった〉
〈すべてのことが繋がっていると思える〉
〈一つのことを一生懸命取り組めば、それによって得た力で他のことにも応用できる〉
〈自信が自分を支えてくれる〉
彼女の中で生じた変化は、ある得点を超えられたとか、何かの資格が得られたとか、そんな具体的なものを決して指すものではありません。それは、抽象的であり、主観的であり、どこかあいまいさを含んだものであるのかもしれません。だけど、彼女は変わり始めているのです。確実に変わり始めているのです。

彼女の変化、それは彼女の視界そのものの変化と言えるかもしれません。彼女の見ている世界そのものが変化し始めたのです。だからこそ、同じ風景を見て、以前はバラバラに存在していたモノが、繋がりを持ち始めるのです。Ｊ.メジローは、このような変化を〈パースペクティブ変容〉と名付け、具体的なコトの変化〈スキーマ変容〉と区別して捉えました。そして学びの本質的な目的を、この〈パースペクティブ変容〉においたのです。そういった意味では、彼女は、今まさに自ら語り始めることによって、どこか今までとは違う、今まで経験したことのない学びの世界を垣間見ているのかもしれません。

「20歳にしてやっと気が付いた。やはり私は同世代の人達に比べてかなり幼い。今日の先生の、あまり生徒を子どもとしては扱わないという話にとても共感した。自分の14歳のころを思い出すと、大人たちが思っているよりいろんなことを考えていたような気がする。子どもは、大人が思っているより大人だ。それに、20歳になった今も、私は大して変わっていないように思うからだ。私は立場としては一応先生だが、先生と呼ばれるような人間ではない。だから、できるだけ生徒が見ている世界に近づいていろんなことを考えてみようと思う」
　
自省的な彼女の文章、そこからFさん自身の謙虚な姿勢が伝わってきます。私の生徒への関わり方を見て、彼女は自分自身の過去を振り返り、現在を振り返ります。私のことを自分自身の課題として見ていくことで、新しい自分の存在が見えてくるのです。そしてふと気がつくと、彼女の語りが私の語りと重なっていることに気がつきます。彼女が語り始めた時、それはアウラの学習者となったことの証であるのかもしれません。
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         <link>http://tiseikan.com/blog/2010/06/post_359.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 Jun 2010 18:19:09 +0900</pubDate>
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         <title>学び</title>
         <description>早いもので、もう六月になりました。
雨が降ったり降らなかったり…
お天気に一喜一憂させられる毎日です。

そんな中、先日、我が家で八年間飼っていた愛犬が、亡くなりました。心臓が悪かったらしく、何度か発作を起こすなど、亡くなる前の三日間は夜もなかなか眠れないくらい本当に苦しそうにしていたのですが、息を引き取るその瞬間は、あまり苦しまず、眠るようにして死んでいったので、それだけでもよかったかな、と思っています。

こういった生き物の死、を目の当たりにして、生きていたものが死んでいくって、すごいことだな、これもまた「学び」の一つだな、と思いました。

そこで、いつかある本で読んだような気がした、「人間が「死」を目の当たりにし、それを日常的なものだと捉えることが、年々少なくなってきている」という文章を思い出しました。

私が幸運なことに死に目にあうことのできた二人の祖父は、病院のベッドの上で、いろいろな管につながれ、様々な機器に囲まれ亡くなっていきましたが、現代社会に生きる多くの人が、そういった臨終を迎えるのではないかと思います。古今を問わず、親しい人の死はとてつもなく悲しいものですし、少しでも長く生きて欲しいと思う気持ちはあって当然だと思いますが、確かに、そのような状況で迎える「死」は、私自身の日常の延長線上にあるものだとは考え難いような気がします。あくまでも、非日常的な、言葉は悪いかもしれませんが、大きなイベントのような印象を受けるかもしれません。

そういった中で、愛犬が、病院でなく我が家で死を迎えたことに、私は衝撃を受けました。昨日までこの家で生きていたものが、今はもうこの家で死んでいる、という自明の事実に、「死」を改めて身近に感じ、衝撃を受けたのだと思います。生きとし生けるものはいつか死んでいく、そんな当たり前の事実と、その「死」は私達が生きる日常の延長線上にあるものなのだという意識を、私は愛犬の死から教えてもらいました。本当に人生は、学びに満ちているのだなぁと思いました。

日常に溢れる、小さかったり大きかったりする出来事に何を見出すかは人それぞれですが、そんなものの中から「学び」を得ていけると素敵だな、そう思いました。

中学生の皆はもうすぐ定期テストです。
定期テストというイベントや、それにむけて準備することから、皆が何かを学んでいってくれると嬉しいなと思います。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">田中先生</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 20 Jun 2010 14:11:37 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>すぐに答えの出ない問い</title>
         <description>その日、私は高校生の数学を教えているＹ先生と今年第一志望の大学受験に失敗したＴのことについて話をしていました。もともと国公立大学の法学部を目指していたＴは、文系科目を得意としていましたが、数学が苦手でした。しかしＴは大変よく学習をする生徒で、Ｙ先生の出した課題も家ですべてこなしていたにもかかわらず、今回の入試については、数学で思うように点数が取れなかったのです。大学を首席入学したＹ先生は、受験数学についても大変高い能力をもっており、また生徒への強い熱意があるにも関わらず、Ｔの数学を十分に伸ばしきれなかった。それが、いったいなぜなのか、私はＹ先生と一緒に考えてみたかったのです。

「Ｔのことなんだけど、Ｙ君が指導していて彼女は〈伸びた〉って感じを持った？」
「…、Ｔは本当によくやってくれたんですが、正直、あんまり伸びてないように思います」
「なぜ伸びなかったんだろう。僕から見てもＹ君は数学について高い能力を持っているし、Ｔの学習へのモーティベーションも高かった、にもかかわらず〈伸びなかった〉のはどうしてなんだろう？」
「実は、僕もそのことを今までもずっと考えながら指導してきたんです。いろんな教材を調べたり、有名な予備校講師のシラバスを確認したりしたんですけど、特に僕の指導の流れに問題は見つからなかったんです。生徒との関係も良好だったし、特にＴなんか、よく慕ってくれてたんです。でも、伸びなかった。僕にもわからないんです」

Ｙ先生は、中学の時に数学がまったくと言っていいほどできない子どもでした。それが高校に入学してから一変します。少し家庭内で複雑な事情を抱えていたこともあり、きちんと勉強して難関大学に入学することを目標にかかげ、自学自習で数学の力を磨いてきたという経験を持っています。私は、彼を講師に採用する時、彼のそんな経験に魅力を感じていたのです。だからＹ先生は、数学ができない生徒の状況はよく理解できるのです。

「Ｔは、主体的に数学の考えを組み立てていたんだろうか？あるいは、Ｙ君から指示されたことをただ処理していただけなのではないだろうか？僕が思うのには、数学ができるようになるためには、自分で数式の処理をしながらも、その処理が全体の中でどんな位置にあり、何を意味するのかを常にモニタリングしなければいけないと思う。つまり、目の前のことを処理をする思考と、その処理をモニタリングする思考の両方が同時に必要になってくる。だから、ひょっとするとＴは、そのモニタリングの思考、メタレベルの思考が育ってなかったのかもしれない。どうだろうか？」
「確かに、そうかもしれません。Ｔは僕の出す課題を、ただ処理していただけかも知れません。今まで何度か僕は塾長の数学の質問に答えてきたことがあるじゃないですか、塾長は高校数学の公式をほとんど知らないのに、どんどん問題を解いていかれる。図を使ったり、グラフを描いたり、見当をたてて数字を当てはめてみて、そこから仮説を立て、次の数字をいれて検証する、だいたいそんな方法で問題を解かれてきたと思うんです。そんなやり方をする生徒なんて誰もいないんです。あらゆる情報から可能性を見つけ、それを組み合わせて仮説を立て、同時に検証する。そしてその仮説が行き詰まると、その行き詰まり方からも情報を吸い上げて、さらなる仮説を組み立てていく。塾長は、そんな感じの思考が恐ろしく強いんだと思うんです。まさにＴには、その力が育っていなかったんだと思います」

「じゃ、どうすれば育つんだろう？」
「うーん…、僕は今まで問題を多くこなしていくことで、そういう能力が身に着くと思ってたんですが…、でもＴは身に付かなかった…」
「たとえば、ある対象物に何かをどんどん与え続けると、その量に応じて定量的な変化がみられる。でもこの実験をし続けていくと、ある段階で急速に変化が大きくなるポイントがあるように思うんや。少し比喩的な表現だけれど、その変化が大きくなるポイントでは、対象物の内部の構造がある段階を境に変わったり、別のファクターが働き、変化そのもののあり方が変わっていく。こんなことが数学の学習においても起こるんじゃないかな。つまり、数学の力を伸ばすには、問題を与え続けるだけでは不十分であるということ、何か別のファクターがいる。それが何かだよなあ…」
「なるほど…、そうかもしれません。でも、それって何なのでしょう？どうすればそれが育っていくんでしょう？」

すぐに答えの出ない問いがはじまりました。アウラではよく生じるやりとりです。決して私が答えを持っているのではありません。私も一緒に考えていくのです。

「塾長は、どうしてそんな多面的な思考ができるようになったんですか？それって、昔からそうだったんですか？」

Ｙ先生の質問に私は考え込んでしまいました。そういわれれば、子どもの頃からそうだったのかもしれない。とにかく小さいころから、仮説を立てて考えることは好きだったように思います。特に答えが出ないことが好きでした。それと誰かとその問題を共有して考えることが好きでした。それは、誰かと問題を共有することで、自分とは違った考え方を手に入れることができるから、そのことによって新たな仮説を作り出せるからだったように思います。高校生の時、ある数学の教師にこう言われたことがあります。
「おまえは、いつも考えすぎるから数学ができないんや。公式を覚えてそれに当てはめる。考える暇があるんなら、問題のパターンを覚えろ」と…。

「確かに僕は、子どもの頃から〈考える〉ということそのものが好きだった。考えるということは、主体的でなければ成り立たない。試行錯誤しながら、いや、言い方を変えれば〈考える〉ということは、〈仮説を立ててそれを検証する〉という連続的な作業じゃないかなあ。仮説は、自分の持っている既有知識と問題から提供される未知の情報との関係性を見つけ出すことで構成されるから、それは教師によって与えられるものじゃない、自分でその関係性を作り出さないといけないんだ。難解な数学の問題を解くには、そんな思考が必要じゃないだろうか？処理能力だけでは、決して歯が立たないように思うんだ」

「なるほど、そう思います。でも、どうすればそれが生徒にできるようになるんでしょう？」
「Ｙ君自身は、どうしてできるようになったんだと思う？僕の話を理解できるんだから、Ｙ君の中にも同質の経験があると思うんだ。どうだろう？」
「うーん…、僕はやはりたくさんの問題をやったからかなあ。でも僕の場合、教えてくれる先生がいなかった。だから自分でその勉強をやったんです。だから当然、そこには思考錯誤の過程があり、自分で検証しながらやってきたんだと思うんです」
「そう、その主体的な経験を生徒にもしてもらわないといけない。自分で仮説を立て同時にそれを検証する。知識を入れるだけ、あるいは処理の量だけでは不十分なんだ。自分で考えを組み立てられないと…」
「少し考えてみます」
「僕も、考えてみる。どうすれば、彼らが自分で仮説を立てながら自分の思考を作り出すことができるかを」

こうして、私とＹ先生との話は終わりました。数学という教科は、自分であることに取り組みながら、一方でその取り組みそのものを振り返るといったような、再帰的な思考のトレーニングとしては、最適な教科だと思います。日本の難関国公立大学が、文系であっても２次試験で数学を要求してくるのは、きっとそのことが関係しているのだと思います。より、多面的で立体的な思考のできる学習者を、アウラの教育が育てられるかどうか。私たちの挑戦は、まだまだ続いていくのです。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 18 Jun 2010 12:01:16 +0900</pubDate>
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         <title>私のまきこみ癖</title>
         <description>銀行員のＳ君は、1ヶ月に2回はアウラに顔をだします。もちろん仕事で顔を出すわけですが、世間話の傍ら私はいろんな話を投げかけます。大変優秀な国公立大学の経済学部を卒業したＳ君は、今年で入社2年目になります。

「どうしたの、つかれてるみたいだけど…」
「いや決算が近いんで、毎日夜10時頃になるんです。それに今週末に試験があって…」
「銀行員になっても、試験があるの？」
「銀行協会の試験なんですけど、こんな試験受けても意味があるのかって思うんですが、受けさせられるんですよ」
「意味があるのかって、どういう意味？」
「実際のお客さんの状況に、あまり役立たないように思うんです」
「どうしてだろう。どうして役立たないんだろう」
「どうしてって、お客さんの状況は、様々ですからね…」

現実に振り回されている新人のＳ君には、めまぐるしいばかりの現実のバリエーションに、ただその対応に追われるばかりです。次から次へとやってくる課題にただただ対処してるだけなのかもしれません。学習でも仕事でも経験値が上がっていくということは、処理しなければならない課題が増えるわけですから、どこかで新しい学び方、処理の方法を手に入れなければなりません。

「現実というものは、変数がやたら多い。でも学校で教えられることは、変数がかなり制限されている。Ｓ君は、優秀な大学を卒業したんだけれど、所詮、学校で学ぶことは、変数に制限がかかっている。そのことについて自覚的である必要があるんだ。答えのある課題、一つの答えに集約される課題は、必ずそこに変数の制限がある。東北大学の先生が言ってたけど、おそろしく複雑な計算をロボットは瞬間で処理できるけど、100円持って駄菓子を買いにいくことはなかなかできないんだって、それは変数が多いからなんだ。Ｓ君は、銀行に入社して、お客に対応して、現実の変数の多さに戸惑ったわけだ。でも、これがスタンダードなんだ。これがまさに本当の世界。学校での学びは、変数の制約という観点で考えれば、作られた虚構の世界なんだ。だから、今現実の世界を前に仕事をしているＳ君には、そのギャップを埋めるだけの思考が必要になってくる。飛躍が必要になってくるんだ」
「おもしろいですね」
「おもしろいか？（笑）」
「いや、おもしろいです」

私は、こんな風にすぐに人を巻き込んでしまいます。それは時に保護者であり、時に卒業生であり、時に行政の人間であり、時に学校の教師でもあります。私からすれば、この話はよくスタッフや子どもたちに話していることなんですが、それは銀行員のＳ君にとっても興味があることのようです。

「“意味がない”って感じるのは、つまりＳ君自身が意味を構築できていないからです。まだ意味を構築する能力が育ってないのかもしれない。いや、意味を考える必要性すら感じていないのかもしれない。このまま、現実に追われ続ければ、いつか適当にやることを覚えるか、あるいはパンクするしかない。そうじゃないですか？」
「そうだと思います」
「だから、そこで考えないといけない。せっかく優秀な大学を卒業したわけでしょ。頭を使わないと…」
「どうすればいんですか？」
「メタな思考がいる。たとえば、私の話す論理はＳ君が受ける試験には、まったく役に立ちません。ただその試験の意味を構築することには役に立つかもしれません。つまり、私の話す論理と、試験の中にあるある論理は次元が違うのです。この異次元の論理を、常に自分の中に共存させないといけないんです。すると無限の変数が存在する現実を、さまざまなフレームで括りながら整理することができるようになる。一つのフレームじゃ役に立たない。複数のフレームをずらしながら現実を捉え理解することが大切なんだ」
「なるほど」
「私の話していることわかりますか？」
「ええ、なんとなく」
「まあ、そんなこと少しは考えてみてください。そうすると、少しは疲れなくなるかもね」

こうしてＳ君は、私に巻き込まれていきました。アウラに来るたびに30分、1時間と私の議論の相手をさせられる羽目になっていきました。こういう話が毎回のように重なっていくと、いつかＳ君自身の中に変化が起こります。私は、それを見たいのかもしれません。アウラは、そういった意味でもまさに〈森〉なのかもしれません。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 11 Jun 2010 18:37:10 +0900</pubDate>
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         <title>〈ひとりであること）をめぐって</title>
         <description>Ｙ子は、その日初めてたった一人で在籍校に足を踏み入れ、学年末考査を受験しました。１年前までほとんど家から出ることもなかったＹ子ですが、アウラに自分で通い始め、毎日学習活動を続ける中で彼女なりの自信を取り戻し、今まで誰にも話しをすることのなかった自分自身を表現するようになって、今日のテストの受験へとつながったのだと思います。

そんなＹ子がテストを学校で受験している間に、在籍校の校長先生がアウラに訪ねてこられました。学校とはこれまでも何度か情報を交流させてきたので、私も安心してＹ子の状況をお話しすることができました。

「いつもお世話になり、ありがとうございます。今回、Ｙさんが学年末考査を受験できるようになったのも、アウラで丁寧に指導いただいてるからだと思っています。１年前は、名簿にも名前を記載しないでほしい。家庭訪問もしてほしくない。と、学校からすれば、手も足も出せない達磨状態だったのですが、アウラに通い始めてからは、どんどん本人も力をつけはじめ、テストまで受験できるようになったのですから、本当にすごいことだと思っています」
「そうですね。本当にＹ子ちゃんは変わりました。ずいぶん力強くなってきたと思います。毎日あの子は、淡々と自分の生活を送っています。その根底には〈ひとりである〉ことを引き受ける力があるんだと思います」
「〈ひとりであることを引き受ける力〉とは？」
「以前にも、学年主任の先生には少し電話でお話したんですが、彼女は“ひとりでいることが一番好き”っていうんです。そしてそのことを小学校の高学年頃から自覚するようになっていったんです。小学校の先生は、Ｙ子が孤立しないようにといろいろ配慮をしたそうですが、それはＹ子から見ると余計なお世話で、そっとしてほしかった。彼女から言わせれば、学校の先生の彼女への理解はほとんど的外れで、本当の気持ちを話しても理解してもらえなかった。そしてそのうち、理解してもらおうという気持ちがなくなっていったそうです」
「よくわからないです…、彼女は孤立してひとりでいることを望んでいるんですか？」

校長先生は、私の話すことがよく理解できないようでした。その理由は簡単です。先生にとっては、〈ひとりであること〉＝〈孤立〉であり、そこにはネガティブな意味づけがあるからです。学校管理者としては、生徒が孤立することは防がなければならないことなのです。ここに学校の先生とＹ子との〈ひとりであること〉をめぐる認識の違いがあります。学校には学校独特のフレームがあるのです。そしてそのフレームを通してＹ子を見つめると、彼女はいつも〈問題を抱えた子ども〉であり、生徒指導の対象となるのです。実は、Ｙ子自身もこのフレームの違いに戸惑いを持ってきたのかもしれません。

Ｙ子の様子を観察すると、彼女はとても自律的な子どもであることがわかります。それは学習面だけではなく、生活全般にも言えることでした。お母さんの話によると、彼女は小さい頃から大変手のかからない子どもだったそうです。５人兄弟の２番目という立場から、彼女は周りの手を煩わさないことに価値を見出してきたのかもしれません。何でもひとりでやり遂げようと無意識に行動をとってきたのかもしれません。

そんなＹ子が思春期に差し掛かる小学校高学年の頃、彼女は人間関係の難しさに直面します。本来〈ひとりである〉ことを好んでいた彼女でしたが、周りがグループを構成するようになると彼女も否応なく、どこかに属さなければならなくなりました。そして自分が望んでいなくても周りに合わせることが多くなり、彼女はしだいにストレスを感じる機会が増えていきました。そんなある時、彼女は友達関係の中で〈ひとりである〉ことを選びます。そしてそのことがきっかけとなって、彼女はクラスの中で孤立することになり、次第に学校を休むようになっていったのです。

私はＹ子を通して〈ひとりである〉ことをあらためて考えてみたいと思うようになりました。彼女を〈問題を抱えた子〉と捉えるのではなく、〈ひとりである〉ことを引き受けられる自律的な子どもと捉えることで、Ｙ子の違った側面が見えてくるように思ったからです。彼女は、小学校高学年頃から自分自身を表現することにためらいを覚えるようになっていきます。それは彼女が「自分を理解してくれる人なんていない」と思うようになっていったからです。「家族さえ、私のことを理解してない」と言い切るＹ子のその心のひだに私自身が触れてみたいと思うようになっていったのです。

「私はＹ子と話しているうちに、“すごいな”と思うようになっていったんです。まず彼女は14歳でありながら〈ひとりである〉ことをしっかり受け止められる子どもだと思うんです。私も、今までかなりの子どもたちに出会ってきましたが、その中でもＹ子のような静かな強さを感じる子どもはなかったように思います。それでいて、彼女は決して孤立しているわけではありません。自分自身を閉ざすのではなく、私ともこんな話をするんですから…。つまり、彼女を問題の子どもとして捉えるのではなく。自律的な子どもとして捉えなおしたとき、彼女は私に自分の心の内を話してくれるようになった。だからこそ、彼女をある固定されたフレームの中に押しとどめるんではなく、彼女は彼女のままでありながら、周りとの関係を構築していけるようになればと私は考えているんです」
「なるほど、そうかもしれません。なかなか、そこまでの対応や考えは、現場の教師にはできません。先生であるからこそできるのかもしれません。いい勉強になりました。そして、今後Ｙ子さんの対応を学校としてどう捉えて、どうサポートするのか、学校に持ち帰って考えてみたいと思います」
「ありがとうございます。先生にご理解いただいて大変うれしいです」
「いやこちらの方こそ」

こうして、校長先生との話は終わりました。Ｙ子のことを通して、私はあらためて〈ひとりである〉ことを見つめ直し、私とＹ子との関係性を通して、校長先生は学校としてのＹ子への関わりを見つめ直そうとしています。思い返せば、こうして一人一人の子どもたちから、私は多くの宿題をもらいながら、その教育を考えてきたのかもしれないと、あらためて感じさせられました。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 04 Jun 2010 07:58:59 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>皐月</title>
         <description> 早いものであっという間に5月も終わりです。
5月とは言っても、極端に暑い日や寒い日があったりと不安定な気候が続きました。
5月下旬には中間テストがあり、それぞれ自分の課題に取り組んでいました。
国語ではみんな文法に苦戦していました。

私も中学生の頃は国文法の学習はあまり好きではなかったので、確かに品詞とか活用形とか活用の種類とか言われてもややこしい！と思う気持ちはよくわかります。

中学・高校を経て大学で国語学の勉強もしていたので、だんだんと普段何気なく使っている言葉はこういう構造になっているんだな～ということがわかって興味深いものだと思うようになりました。

結局は、わかるようになったらおもしろいということなんだなと思います。
学生の頃、わからなくて、おもしろくなくて、おもしろくないので更に勉強する気が起きず、結局あまり深く学ぼうとすることなく終わってしまったということがたくさんあります。

大人になってからもっと勉強しとけば良かったと思うことなんてしょっちゅうです。
「学生のうちに沢山勉強しとき」と多くの大人はいいますが、本当にその通りだなと思います。（たぶん歳をとってきたからです）

おもしろくするには、たくさんのことに興味を持つこと、おもしろくないことをおもしろくするためにまずはわかろうとすること。
当たり前のことかもしれませんが、そういう意識を持つだけでだいぶ変わってくると思います。

中学生の国語の学習の仕方を見ていると、実際になんとなくやるのではなく、今日はワークのここまでやるとか、今日は友達と私語をせずに進める、とか自分の意識を変えることで進むスピードも正解率も全然違っています。
「今日はすごくがんばった」や「わかるようになった」と今日の学習の反省に書いてあるとこちらも嬉しくなります。

そしてやる気を出したときのパワー（吸収力）はやっぱりさすが若者！と思わされます。

さて、中間テストはそろそろ全教科結果が返ってくるころだと思います。
結果を見て反省する部分は反省し、来たる期末テストに向けてまた気持ちも新たにがんばっていきましょう。

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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">石塚先生</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 30 May 2010 22:10:37 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>塾長がこわい？</title>
         <description>私のことを「こわい」という生徒は、案外たくさんいるのかもしれません。別に普段から叱りつけているわけでもなく、威圧的な態度で接しているのではないのですが、私には彼らに「こわい」と感じさせてしまう瞬間があるようです。

私は、中1のＫちゃんと向き合っていました。その日は、一度学習した単元をしっかり習得できているかのチェックをスタッフにしてもらい。その直しをしているＫちゃんのそばに私は座って、彼女と話をしていました。

「どうやった？できたの？」
「全然…」
「これみんな、ゼミでも学習してきた内容やろ。ゼミの時は、みんなできていたやん」
「時間がたつと、忘れてしまう」
「それは、困ったなあ。やってもやっても、次から次へと忘れていく、それじゃ、結局何にも残らないやん。結果的に何にもやってないのと同じになってしまう。このことをＫちゃんは、何とかしないとあかんのと違う？」
「そうだけど、忘れるもんは、忘れるんやもん…」
「栓をしてないお風呂に、お湯をはっている時のように、このままじゃ、いつまでたってもお湯がたまらん。やりっぱなしの状態や。始末が悪い。どうすればいいと思う？」
「さあ…、わからん」

ここまで話して、私はＫちゃんが自分の置かれている現状に、しっかり向き合おうとしていないこと。嫌なことには向き合いたくない、できれば見ないでおきたいという思いを持っていることを感じていました。学習以前の、彼女の行動パターンがそこに見えてきます。この部分について、私はさらに突っ込んで話をします。

「ひょっとすると始末が悪いのは、勉強だけじゃないかもしれない。私はＫちゃんのプライベートを知らないけど、私生活でも始末が悪い、いい加減なのかもしれないと思う。例えば、出したものをしまわないとか、自分の部屋を片づけられないとか、人間関係でも最初は調子がいいが一旦トラブルになるといい加減な対応をしてしまうとか…」
　Ｋちゃんは、少し涙目になっていました。
「塾長、こわいわ」
「だって見えてしまうもん。Ｋちゃんが勉強しているところから、いろんなものまで見えてしまう…」

私はよくこんな風に、タイミングを見計らって私の見えている世界を生徒たちに直接伝えるということをします。私の中では、学習という活動を通して、彼らが自分自身に向き合っていくことを期待するからです。そしてそれは、私自身が当事者として彼らに直接かかわっているからできることかもしれません。

「Ｋちゃんは、まず、今の状態に自覚的になるべきや。このままであと1年過ごして3年生になれば、かなり大変になる。“何とかしないとやばい”という気持ちを持ってほしい。それと一旦理解したものを忘れないようにするためには、復習しかない。説明を聞いても、わかったような気になってしまうだけで、本当はわかってないかもしれない。それを確実にするためには、自分でもう一度考えてみるか、あるいはもう一度やって見るしかない。Ｋちゃん、アウラにもう1日来たらどう？」
「えーっ…」
「それがいややったら、自分でやるしかない。家でやるしかない。別にアウラで学ばなくてもいい。ただ、このまま放置したら、Ｋちゃんは、同じパターンを繰り返すだけ。とにかくきちっと始末できるように、何か新しい行動が必要なんだ。そこのところをＫちゃん自身が考えないといかん」
「はい…」
　
アウラでの私の大きな役割は、このように生徒一人一人と向き合うことかもしれません。生徒と向き合うためには、その生徒がよく見えていないといけません。そう言った意味では、アウラは生徒がよく見える環境なのかもしれません。学校と違って、アウラは一斉授業をそのベースにおいていません。自律的に自学自習をおこなうことがアウラ流なのです。このような環境の中においては、その生徒本来の学習スタイルが表現されていきます。そして、この学習スタイルの中に、その生徒の行動の癖（パターン）が見え隠れするのです。私は、まずこの癖を見つめます。そしてこの癖が、その生徒が抱えている学習上の課題に反映されているのです。さらにこの癖は、生徒の家族関係や友達関係などの関係性の中から形成されてきたものですから、そこからその関係性そのものを見つめていくこともできるわけです。このように私は、生徒の学習を入り口にして、生徒の関わる世界全体を見ているのかもしれません。
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         <link>http://tiseikan.com/blog/2010/05/post_353.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
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         <pubDate>Fri, 28 May 2010 18:00:33 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>〈私〉のコトバで語ること</title>
         <description>　高校3年生になるA子は、すでにAO入試で大学を決めています。留学経験がある彼女は、TOEICのスコアーが800近くあり、それを武器に私立大学のAO入試にチャレンジし、見事合格を勝ち取りました。A子は大変前向きな高校生で、合格が決まった後も、アウラで学習を続けたいという希望があり、私との話し合いの中で社会学の本を一緒に読むことになりました。私が選んだ本は、宮台真治の『14歳からの社会学』、毎週1章ずつ内容を要約し、コメントをまとめるという課題を私は彼女に課しました。そして、彼女の書いてきたものを元に週1回ディスカッションの機会を設けました。

　A子は優秀な生徒です。彼女の書いてきたペーパーからもそのことは容易に察することができました。的確にまとめられた要約、そして自分の意見をその要約と対比させながら書き上げられる力は、彼女の普段からの読書量に支えられているのでしょう。

　第1章は『〈自分〉と〈他人〉』というタイトルの章です。この章を通して宮台は、現代社会の持つ傾向として、個人化が進行することでしだいに〈他者〉の存在が見えなくなり、そのことによって、〈他者〉からの承認が得られにくい社会となり、そのことが〈自分〉の尊厳を揺るがしていることを述べています。これは、現代社会のもつ〈人〉と〈人〉との関係性を喪失させるシステムであり、宮台はこのシステムをいくつかの具体例をあげながら説明しています。

　A子は、食品偽装事件や通り魔殺人親族殺人などの例を取り上げながら、私たちの共通前提の揺らぎを以下のようにコメントとして取り上げていました。

「現代社会において、食品偽装問題や通り魔殺人、親族内での殺人などといった共通前提を脅かす事件が毎日どこかで起きている。そして身近なことからは、つい数年前まで見ることのできた公園で遊ぶ子どもや家の前の道路で遊ぶ子どもの姿がほとんど見ることができなくなった。このようなことからも、実際今の若者にとって何を信じてもよいのか、何を頼りにして生きていけばよいのかが分からなくなってきていると私は思う。（略）」

　私は、彼女のコメントを読みながら、下線部の表現が気になっていました。『今の若者が－（中略）－と私は思う』という部分です。ここでは、〈今の若者〉と〈私〉は切り離されています。どこか離れた位置にある〈私〉が、〈今の若者〉を観察している、そんな視点から、彼女の文章が構成されていることに私は違和感を覚えたのです。A子の文章は、その後も理路整然と続いていきます。〈私〉を〈今の若者〉と切り離し続けながら…。そしてA子はそのことに気がつかない。

「A子ちゃんのコメントの中の〈今の若者〉には、A子ちゃん自身が含まれていない。自分自身を傍らに置いて〈今の若者〉について書くことは、簡単だと思う。それはいくらでも、コトバを並べて文章のかたちを整えるだけで書けてしまう。そうじゃなくて、今の社会、今の若者としての〈私〉という視点でコメントを書いてほしい。そうすると様々な葛藤が生まれるかもしれない。それを言語化してほしいんだ。A子ちゃんの生活、生き様と宮台真治の考えを照らし合わせることで、同意できる点、反発する点に気づいてもらいたい。そうしないと、深みが出てこないし、おもしろくない。ぜひ、それを次回のコメントとして書いてきてください」

私は、A子にそう告げました。

　A子の他にも、〈私〉という存在をどこか離れたところにおいて、文章を記述しようとする生徒たちは結構います。これはアウラの生徒たちに限ったことではなく、大学生や大学院生においても同じような傾向が見られるように思います。〈私〉という視点が不明瞭な記述は、それが充分に吟味されたものでない限り、単にコトバを羅列したものになりさがってしまう危険性を備えており、いとも簡単に〈私〉自身によって切り貼りされたり、文脈を変更されたりするのです。

様々なメディアから多くの情報が発信されている生活世界の中で生きる今の子どもたち、彼らは様々な選択肢があるという自由を持っている反面、常に情報を選択しなければいけないという状況に追いやられています。そしてその選択の判断は、〈私〉である子どもたち自身に委ねられていくのです。いわば情報過多の状況は、相対的に選択力の弱体化を促します。その結果、〈私〉という存在から切り離されたコトバの羅列による記述が増えていくのです。そして〈私〉という存在から切り離された記述は、言い換えると〈身体〉から切り離された記述であり、それは他者との具体的な関係を伴わない記述です。そこには、生身の人間が繰り広げる臨場感がありません。

　子どもたち、あるいは、若者たちの生活世界もこのような社会の中に組み込まれている限り、同じ傾向を持っています。彼らの学びの世界において扱われる多くの情報は、彼らの生活世界と切り離されたところに位置づけられており、断片化された記号と化しています。そして彼らは、それをテストやレポートに向けて機能的に並べ替え、客観的な体裁を整えるのです。彼らにとっては、情報そのものが重要であり、その情報と〈私〉との関係は、ほとんど問題にされることはありません。だから、A子のような記述をする生徒は他にもたくさんいるのです。

〈私〉のコトバで語ること、それは〈私〉の生活世界を語ることであり、〈私〉の生活世界と周囲に位置する〈モノ〉や〈コト〉、あるいは〈他者〉との関係をあらためて再構築することです。〈私〉という存在を決して切り離すことなく、その〈身体〉からの視点で周囲の〈環境〉との関係を模索する時、そこに同化される瞬間が生まれ、〈私〉と〈環境〉との境界がしだいにぼやけていくのです。そして私たちは、その瞬間に新しい学びの世界を垣間見るのかもしれません。
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         <link>http://tiseikan.com/blog/2010/05/post_351.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 21 May 2010 17:39:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>Preciouｓ</title>
         <description>　四月に新学年がはじまって、ひと月あまりがたち、新しい環境にもすっかり馴染んできた頃でしょうか。
　新緑から初夏へと季節が移り変わっていく五月から梅雨入りまでのこの時期が、私は一番好きなです。
　身体も心も開かれていく季節ですね。

　アウラでもそれぞれの学年の子どもたちが、自分の課題にひたむきに取り組んでいます。その姿を見ているとこの季節の草木と同じ、伸びていこうとする彼らの生命力を感じます。若いってすばらしいですね。

　先日久しぶりに映画を見に行きました。”Precious&quot;という映画です。
ハーレム育ちのこれでもかというほど悲惨なな状況にある16歳の女の子が主人公のノンフィクションのストーリです。
　彼女は過酷な環境にありながらも、学ぶことを決してあきらめず、やがて一人の教師と出会い、生活環境を変えていきます。
　学ぶこと、太陽のように光と暖かさで自分を見守ってくれる人の存在、どんなに悲惨な状況でも命が繋がれていくこと、これらの意味をしみじみ感じました。
　見終わった後に静かな力強さが湧き起こってくるようないい映画でした。
　</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2010/05/preciou.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">北村恵美子先生</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 18 May 2010 20:22:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>神戸・明石・須磨・淡路島</title>
         <description><![CDATA[ご無沙汰しておりました、田中です。

先日私は、大学の学科で、一泊二日の合宿研修旅行に行って参りました。
ちょうど今から一年前にこのアウラのブログで、奈良・桜井への合宿研修旅行の様子をご紹介したのが昨日のことのようです。
タイトルにもあるように、今年は兵庫県への旅でした。
今回は、尾上神社、須磨寺、関帝廟などを見て回りました。

一日目に訪れた尾上神社の境内には、謡曲『高砂』に謡われた「尾上の松」があります。
その初代尾上の松から数えて、現在は五代目尾上の松なんだそう。
それまでの尾上の松は、松食虫のために枯死したり、戦の際、薪にするために切り倒されて死んでしまったりしたのだとか。
現在の五代目尾上の松は、樹齢約100年。
このまま美しく生きていって欲しいものです。

二日目に訪れた須磨寺は、源平合戦にゆかりのあるお寺。
16～17歳で源氏方の熊谷次郎直実に涙ながら首を斬られて亡くなってしまった平敦盛の首塚があるお寺です。
敦盛は、「青葉の笛」という歌でも有名ですよね。
（ちなみに、青葉の笛は、笛の名手であった敦盛の死の際、腰に残っていた笛のことです。今も須磨寺に残っています。）
アウラに通っている皆と同年代の少年が戦によって命を落としていた時代に、心を馳せてみるのもよいかもしれません。
（平敦盛の最期を描いた作品としては、『平家物語』や『源平盛衰記』などがあります。）

<img alt="sumadera2.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/sumadera2.jpg" width="140" height="200" />

<img alt="sumadera.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/sumadera.jpg" width="140" height="200" />
（敦盛の首塚です）


その次に訪れた関帝廟とは、明治以来華僑に信仰されてきた神戸唯一の中国寺院です。
そのご本尊は、中国三国時代の蜀の武将で知られる関羽。
三国志の登場人物として記憶している方も多いのでは。

<img alt="kanteibyo2.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/kanteibyo2.jpg" width="140" height="200" />

すごくきらびやかな建物で、日本の寺院とはまた違った魅力を感じることが出来ます。


私が今回の合宿研修旅行で訪れた場所を書き連ねましたが、このほかにも兵庫県には、文学とも関係がある様々な歴史的寺院などが存在しています。
（今回あまり触れなかった明石も、源氏物語で光源氏が下った場所として、そして光源氏が愛した女性の一人である明石の君の名でも有名ですし、淡路島も、百人一首に収められている権中納言定家（藤原定家）の歌「こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつゝ」で知られています。）

このように、感受性が豊かな若い時代に歴史的な寺院や建物、遺跡を訪れて、先人達の人生や歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">田中先生</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 16 May 2010 22:54:10 +0900</pubDate>
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