2010.07.02

テスト結果が返る時

「先生、聞いて、聞いて。すごいで…」
学校のテスト結果が返ってくる頃、アウラの中ではその結果をそれぞれの生徒が先生に報告する場面が見られます。中3のT子は、そんな彼らの中でも特に変化の大きかった生徒の一人かもしれません。

「ほら、数学86点、英語83点」
「へーT子、すごいな」
「だって、私、2年生の時、数学も英語も20点台やったもん」
「すると、4倍?」
「そう、4倍くらいの点数がとれるようになった」
「家の人もびっくりしたはる?」
「お母さん思わず、おばあちゃんに電話したはったもん」
「あっそう。よかったね。でも、T子は本当に変わったね。まあ、点数のこともあるけど、何ていうのかな、今までは“もうどうせやっても無理”って勉強を諦めていたと思うんや、でも今は自信が感じられる。“私もやったら何とかできる”っていう自信。これが大事なんやと思う。アウラに来てT子が手に入れた最大のものは、その感覚なんやと思う」
「はい」

子どもたちが本当に変わる時は、何かこうグーッと変わっていくんですね。それが私たち大人とは大きく違う点かもしれません。T子の場合、その変化はまず数学で起こりました。何か一つでもいいんです。その教科を媒介にして、その子の中にある自信が芽生えてくれればいいんです。彼女は、学習に関して強い劣等感を持っていたので、それが薄まっていくだけで、自信が生まれるのです。あとはその自信を裏付けるようなテスト結果のような具体的なものがあればいい。

T子は、今学期に長かった髪の毛を思い切って切りました。ショートヘアになった彼女は、その外見の雰囲気さえもどこか知的なものに感じられるようになっていったように思うのは、私だけではなさそうです。

2010.06.25

彼女が語りだす時

アウラに研修にきている大学生のFさんは、週1回不登校の子どもたちのいる時間帯にやってきます。そして、子どもたちに関わり、教科の学習のお手伝いをし、授業終了後、私とその日あったことについて振り返りをおこない、自宅に帰ってからそれをもう一度文章化して私宛にメールで送ってくれます。以下は、その文章の一部です。

「…知誠館に行くのは今日で六回目。たったの六回だが、私の中でいろんなものが変化している。一つの事象に対して、以前より視点を多く見出せるようになった。そして、すべてのことは繋がっているのかもしれないと思うようになった。何かひとつでも一生懸命取り組めば、それによって得た力が他のことにも応用できる。そして何より、一生懸命やったという経験が自信となり、自分を支えてくれる。反対に、何事に対してもいいかげんにやっていると、それに対する後ろめたさが自信を失う原因となり、物事を楽しむことができなくなってしまう。そして同じことを繰り返す。まるで負のループだ…」

Fさんの中で起こっている変化、それを彼女は次のような抽象的なコトバを使って表現しようとしています。
〈視点を多く見出せるようになった〉
〈すべてのことが繋がっていると思える〉
〈一つのことを一生懸命取り組めば、それによって得た力で他のことにも応用できる〉
〈自信が自分を支えてくれる〉
彼女の中で生じた変化は、ある得点を超えられたとか、何かの資格が得られたとか、そんな具体的なものを決して指すものではありません。それは、抽象的であり、主観的であり、どこかあいまいさを含んだものであるのかもしれません。だけど、彼女は変わり始めているのです。確実に変わり始めているのです。

彼女の変化、それは彼女の視界そのものの変化と言えるかもしれません。彼女の見ている世界そのものが変化し始めたのです。だからこそ、同じ風景を見て、以前はバラバラに存在していたモノが、繋がりを持ち始めるのです。J.メジローは、このような変化を〈パースペクティブ変容〉と名付け、具体的なコトの変化〈スキーマ変容〉と区別して捉えました。そして学びの本質的な目的を、この〈パースペクティブ変容〉においたのです。そういった意味では、彼女は、今まさに自ら語り始めることによって、どこか今までとは違う、今まで経験したことのない学びの世界を垣間見ているのかもしれません。

「20歳にしてやっと気が付いた。やはり私は同世代の人達に比べてかなり幼い。今日の先生の、あまり生徒を子どもとしては扱わないという話にとても共感した。自分の14歳のころを思い出すと、大人たちが思っているよりいろんなことを考えていたような気がする。子どもは、大人が思っているより大人だ。それに、20歳になった今も、私は大して変わっていないように思うからだ。私は立場としては一応先生だが、先生と呼ばれるような人間ではない。だから、できるだけ生徒が見ている世界に近づいていろんなことを考えてみようと思う」
 
自省的な彼女の文章、そこからFさん自身の謙虚な姿勢が伝わってきます。私の生徒への関わり方を見て、彼女は自分自身の過去を振り返り、現在を振り返ります。私のことを自分自身の課題として見ていくことで、新しい自分の存在が見えてくるのです。そしてふと気がつくと、彼女の語りが私の語りと重なっていることに気がつきます。彼女が語り始めた時、それはアウラの学習者となったことの証であるのかもしれません。

2010.06.20

学び

早いもので、もう六月になりました。
雨が降ったり降らなかったり…
お天気に一喜一憂させられる毎日です。

そんな中、先日、我が家で八年間飼っていた愛犬が、亡くなりました。心臓が悪かったらしく、何度か発作を起こすなど、亡くなる前の三日間は夜もなかなか眠れないくらい本当に苦しそうにしていたのですが、息を引き取るその瞬間は、あまり苦しまず、眠るようにして死んでいったので、それだけでもよかったかな、と思っています。

こういった生き物の死、を目の当たりにして、生きていたものが死んでいくって、すごいことだな、これもまた「学び」の一つだな、と思いました。

そこで、いつかある本で読んだような気がした、「人間が「死」を目の当たりにし、それを日常的なものだと捉えることが、年々少なくなってきている」という文章を思い出しました。

私が幸運なことに死に目にあうことのできた二人の祖父は、病院のベッドの上で、いろいろな管につながれ、様々な機器に囲まれ亡くなっていきましたが、現代社会に生きる多くの人が、そういった臨終を迎えるのではないかと思います。古今を問わず、親しい人の死はとてつもなく悲しいものですし、少しでも長く生きて欲しいと思う気持ちはあって当然だと思いますが、確かに、そのような状況で迎える「死」は、私自身の日常の延長線上にあるものだとは考え難いような気がします。あくまでも、非日常的な、言葉は悪いかもしれませんが、大きなイベントのような印象を受けるかもしれません。

そういった中で、愛犬が、病院でなく我が家で死を迎えたことに、私は衝撃を受けました。昨日までこの家で生きていたものが、今はもうこの家で死んでいる、という自明の事実に、「死」を改めて身近に感じ、衝撃を受けたのだと思います。生きとし生けるものはいつか死んでいく、そんな当たり前の事実と、その「死」は私達が生きる日常の延長線上にあるものなのだという意識を、私は愛犬の死から教えてもらいました。本当に人生は、学びに満ちているのだなぁと思いました。

日常に溢れる、小さかったり大きかったりする出来事に何を見出すかは人それぞれですが、そんなものの中から「学び」を得ていけると素敵だな、そう思いました。

中学生の皆はもうすぐ定期テストです。
定期テストというイベントや、それにむけて準備することから、皆が何かを学んでいってくれると嬉しいなと思います。

2010.06.18

すぐに答えの出ない問い

その日、私は高校生の数学を教えているY先生と今年第一志望の大学受験に失敗したTのことについて話をしていました。もともと国公立大学の法学部を目指していたTは、文系科目を得意としていましたが、数学が苦手でした。しかしTは大変よく学習をする生徒で、Y先生の出した課題も家ですべてこなしていたにもかかわらず、今回の入試については、数学で思うように点数が取れなかったのです。大学を首席入学したY先生は、受験数学についても大変高い能力をもっており、また生徒への強い熱意があるにも関わらず、Tの数学を十分に伸ばしきれなかった。それが、いったいなぜなのか、私はY先生と一緒に考えてみたかったのです。

「Tのことなんだけど、Y君が指導していて彼女は〈伸びた〉って感じを持った?」
「…、Tは本当によくやってくれたんですが、正直、あんまり伸びてないように思います」
「なぜ伸びなかったんだろう。僕から見てもY君は数学について高い能力を持っているし、Tの学習へのモーティベーションも高かった、にもかかわらず〈伸びなかった〉のはどうしてなんだろう?」
「実は、僕もそのことを今までもずっと考えながら指導してきたんです。いろんな教材を調べたり、有名な予備校講師のシラバスを確認したりしたんですけど、特に僕の指導の流れに問題は見つからなかったんです。生徒との関係も良好だったし、特にTなんか、よく慕ってくれてたんです。でも、伸びなかった。僕にもわからないんです」

Y先生は、中学の時に数学がまったくと言っていいほどできない子どもでした。それが高校に入学してから一変します。少し家庭内で複雑な事情を抱えていたこともあり、きちんと勉強して難関大学に入学することを目標にかかげ、自学自習で数学の力を磨いてきたという経験を持っています。私は、彼を講師に採用する時、彼のそんな経験に魅力を感じていたのです。だからY先生は、数学ができない生徒の状況はよく理解できるのです。

「Tは、主体的に数学の考えを組み立てていたんだろうか?あるいは、Y君から指示されたことをただ処理していただけなのではないだろうか?僕が思うのには、数学ができるようになるためには、自分で数式の処理をしながらも、その処理が全体の中でどんな位置にあり、何を意味するのかを常にモニタリングしなければいけないと思う。つまり、目の前のことを処理をする思考と、その処理をモニタリングする思考の両方が同時に必要になってくる。だから、ひょっとするとTは、そのモニタリングの思考、メタレベルの思考が育ってなかったのかもしれない。どうだろうか?」
「確かに、そうかもしれません。Tは僕の出す課題を、ただ処理していただけかも知れません。今まで何度か僕は塾長の数学の質問に答えてきたことがあるじゃないですか、塾長は高校数学の公式をほとんど知らないのに、どんどん問題を解いていかれる。図を使ったり、グラフを描いたり、見当をたてて数字を当てはめてみて、そこから仮説を立て、次の数字をいれて検証する、だいたいそんな方法で問題を解かれてきたと思うんです。そんなやり方をする生徒なんて誰もいないんです。あらゆる情報から可能性を見つけ、それを組み合わせて仮説を立て、同時に検証する。そしてその仮説が行き詰まると、その行き詰まり方からも情報を吸い上げて、さらなる仮説を組み立てていく。塾長は、そんな感じの思考が恐ろしく強いんだと思うんです。まさにTには、その力が育っていなかったんだと思います」

「じゃ、どうすれば育つんだろう?」
「うーん…、僕は今まで問題を多くこなしていくことで、そういう能力が身に着くと思ってたんですが…、でもTは身に付かなかった…」
「たとえば、ある対象物に何かをどんどん与え続けると、その量に応じて定量的な変化がみられる。でもこの実験をし続けていくと、ある段階で急速に変化が大きくなるポイントがあるように思うんや。少し比喩的な表現だけれど、その変化が大きくなるポイントでは、対象物の内部の構造がある段階を境に変わったり、別のファクターが働き、変化そのもののあり方が変わっていく。こんなことが数学の学習においても起こるんじゃないかな。つまり、数学の力を伸ばすには、問題を与え続けるだけでは不十分であるということ、何か別のファクターがいる。それが何かだよなあ…」
「なるほど…、そうかもしれません。でも、それって何なのでしょう?どうすればそれが育っていくんでしょう?」

すぐに答えの出ない問いがはじまりました。アウラではよく生じるやりとりです。決して私が答えを持っているのではありません。私も一緒に考えていくのです。

「塾長は、どうしてそんな多面的な思考ができるようになったんですか?それって、昔からそうだったんですか?」

Y先生の質問に私は考え込んでしまいました。そういわれれば、子どもの頃からそうだったのかもしれない。とにかく小さいころから、仮説を立てて考えることは好きだったように思います。特に答えが出ないことが好きでした。それと誰かとその問題を共有して考えることが好きでした。それは、誰かと問題を共有することで、自分とは違った考え方を手に入れることができるから、そのことによって新たな仮説を作り出せるからだったように思います。高校生の時、ある数学の教師にこう言われたことがあります。
「おまえは、いつも考えすぎるから数学ができないんや。公式を覚えてそれに当てはめる。考える暇があるんなら、問題のパターンを覚えろ」と…。

「確かに僕は、子どもの頃から〈考える〉ということそのものが好きだった。考えるということは、主体的でなければ成り立たない。試行錯誤しながら、いや、言い方を変えれば〈考える〉ということは、〈仮説を立ててそれを検証する〉という連続的な作業じゃないかなあ。仮説は、自分の持っている既有知識と問題から提供される未知の情報との関係性を見つけ出すことで構成されるから、それは教師によって与えられるものじゃない、自分でその関係性を作り出さないといけないんだ。難解な数学の問題を解くには、そんな思考が必要じゃないだろうか?処理能力だけでは、決して歯が立たないように思うんだ」

「なるほど、そう思います。でも、どうすればそれが生徒にできるようになるんでしょう?」
「Y君自身は、どうしてできるようになったんだと思う?僕の話を理解できるんだから、Y君の中にも同質の経験があると思うんだ。どうだろう?」
「うーん…、僕はやはりたくさんの問題をやったからかなあ。でも僕の場合、教えてくれる先生がいなかった。だから自分でその勉強をやったんです。だから当然、そこには思考錯誤の過程があり、自分で検証しながらやってきたんだと思うんです」
「そう、その主体的な経験を生徒にもしてもらわないといけない。自分で仮説を立て同時にそれを検証する。知識を入れるだけ、あるいは処理の量だけでは不十分なんだ。自分で考えを組み立てられないと…」
「少し考えてみます」
「僕も、考えてみる。どうすれば、彼らが自分で仮説を立てながら自分の思考を作り出すことができるかを」

こうして、私とY先生との話は終わりました。数学という教科は、自分であることに取り組みながら、一方でその取り組みそのものを振り返るといったような、再帰的な思考のトレーニングとしては、最適な教科だと思います。日本の難関国公立大学が、文系であっても2次試験で数学を要求してくるのは、きっとそのことが関係しているのだと思います。より、多面的で立体的な思考のできる学習者を、アウラの教育が育てられるかどうか。私たちの挑戦は、まだまだ続いていくのです。

2010.06.11

私のまきこみ癖

銀行員のS君は、1ヶ月に2回はアウラに顔をだします。もちろん仕事で顔を出すわけですが、世間話の傍ら私はいろんな話を投げかけます。大変優秀な国公立大学の経済学部を卒業したS君は、今年で入社2年目になります。

「どうしたの、つかれてるみたいだけど…」
「いや決算が近いんで、毎日夜10時頃になるんです。それに今週末に試験があって…」
「銀行員になっても、試験があるの?」
「銀行協会の試験なんですけど、こんな試験受けても意味があるのかって思うんですが、受けさせられるんですよ」
「意味があるのかって、どういう意味?」
「実際のお客さんの状況に、あまり役立たないように思うんです」
「どうしてだろう。どうして役立たないんだろう」
「どうしてって、お客さんの状況は、様々ですからね…」

現実に振り回されている新人のS君には、めまぐるしいばかりの現実のバリエーションに、ただその対応に追われるばかりです。次から次へとやってくる課題にただただ対処してるだけなのかもしれません。学習でも仕事でも経験値が上がっていくということは、処理しなければならない課題が増えるわけですから、どこかで新しい学び方、処理の方法を手に入れなければなりません。

「現実というものは、変数がやたら多い。でも学校で教えられることは、変数がかなり制限されている。S君は、優秀な大学を卒業したんだけれど、所詮、学校で学ぶことは、変数に制限がかかっている。そのことについて自覚的である必要があるんだ。答えのある課題、一つの答えに集約される課題は、必ずそこに変数の制限がある。東北大学の先生が言ってたけど、おそろしく複雑な計算をロボットは瞬間で処理できるけど、100円持って駄菓子を買いにいくことはなかなかできないんだって、それは変数が多いからなんだ。S君は、銀行に入社して、お客に対応して、現実の変数の多さに戸惑ったわけだ。でも、これがスタンダードなんだ。これがまさに本当の世界。学校での学びは、変数の制約という観点で考えれば、作られた虚構の世界なんだ。だから、今現実の世界を前に仕事をしているS君には、そのギャップを埋めるだけの思考が必要になってくる。飛躍が必要になってくるんだ」
「おもしろいですね」
「おもしろいか?(笑)」
「いや、おもしろいです」

私は、こんな風にすぐに人を巻き込んでしまいます。それは時に保護者であり、時に卒業生であり、時に行政の人間であり、時に学校の教師でもあります。私からすれば、この話はよくスタッフや子どもたちに話していることなんですが、それは銀行員のS君にとっても興味があることのようです。

「“意味がない”って感じるのは、つまりS君自身が意味を構築できていないからです。まだ意味を構築する能力が育ってないのかもしれない。いや、意味を考える必要性すら感じていないのかもしれない。このまま、現実に追われ続ければ、いつか適当にやることを覚えるか、あるいはパンクするしかない。そうじゃないですか?」
「そうだと思います」
「だから、そこで考えないといけない。せっかく優秀な大学を卒業したわけでしょ。頭を使わないと…」
「どうすればいんですか?」
「メタな思考がいる。たとえば、私の話す論理はS君が受ける試験には、まったく役に立ちません。ただその試験の意味を構築することには役に立つかもしれません。つまり、私の話す論理と、試験の中にあるある論理は次元が違うのです。この異次元の論理を、常に自分の中に共存させないといけないんです。すると無限の変数が存在する現実を、さまざまなフレームで括りながら整理することができるようになる。一つのフレームじゃ役に立たない。複数のフレームをずらしながら現実を捉え理解することが大切なんだ」
「なるほど」
「私の話していることわかりますか?」
「ええ、なんとなく」
「まあ、そんなこと少しは考えてみてください。そうすると、少しは疲れなくなるかもね」

こうしてS君は、私に巻き込まれていきました。アウラに来るたびに30分、1時間と私の議論の相手をさせられる羽目になっていきました。こういう話が毎回のように重なっていくと、いつかS君自身の中に変化が起こります。私は、それを見たいのかもしれません。アウラは、そういった意味でもまさに〈森〉なのかもしれません。

2010 September

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